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館内施設

かつてとても幸せな時代がありました。 誰もが夢は叶うものと信じていた、好奇心旺盛で新しいもの好きだった、遊び上手で本当の粋を知っていた、感受性豊かで赤い夕日の色にも涙した… そんなあの頃へ... ここには憧れて止まなかった、あの懐かしい昭和があります。 擦り切れるほど聞いた名盤の大好きなフレーズのような、 色褪せることの無い時間。 古き良き時代の語り部たちが小粋に飾られた空間。 そして、日本に恋焦がれたひとりのアメリカ人が作った、 見たこともないような和の造形。 どれもが皆、あの時代への憧憬であり、 募る想いの発露なのです。
  • 「昭恋館よ志のや」

    【昭恋館(しょうれんかん)よ志のや】は、間人温泉郷「元祖丹後のかにフルコース・最高級間人(たいざ)ガニの宿」としてテレビや雑誌などの各種メディアにて多数ご紹介頂いております老舗旅館でございます。当旅館の場所は、京都の北に位置する丹後半島・間人にあり、日本海に面する様々な海の幸が集まる静かな漁師町でございます。

    ここ丹後・間人でのうまいものとしては、幻とうたわれる最高級松葉ガニである間人ガニをはじめ、あわびやエビ、鯛、ウニ、イカ、ブリなど、新鮮で極上の旬の海の幸を存分にお楽しみ頂けます。ぜひとも、「昭恋館よ志のや」で京都丹後半島・間人の旅をご満喫ください。

  • ロビー・エントランス

    いい音と時間は、決して擦り減らない。
    美しい木柱のアプローチを、まるで時を遡るように上がると、迎えてくれるのは懐かしい音と色、そして光のアンサンブル。階段タンスが凛として主張し、ベネチアングラスが儚く光る。香り高いコーヒーをどうぞ。
  • お食事処

    麻布の垂れ壁と格子戸の先に、
    皆様のご要望にお応えした、よ志のや自慢のお食事処です。小上がり座敷に程好く仕切り、個室感を保ったスペースとなり、最大40名様が一度にゆったりとお召し上りいただけるメインダイニングです。新鮮な魚貝の炭火焼・かに料理など、お食事だけでもお気軽にご利用いただけます。また、個室もご用意いたしてございます。(計8室、2~4名様に対応)
  • よ志のやの歴史

    昭恋館 よ志のやは、1928年の創業以来、2007年、創業80周年を迎えました。
    これもひとえにお客様をはじめ、様々な方々に支えられてきたおかげであると深く感謝いたしております。
  • よ志のや歴史年表 創業以前(大正末期~昭和3年頃)

    初代は織物業、生糸業を経て、うどん屋を営んでいた。当時、初代がこういった商売をする傍ら、小さな伝馬船で海に出て、漁業も行っていた。 先々代はこういった実家の商売の関係から、京都の西陣で織物業の仕事についていたが、織物業での暖簾(のれん)分けは当時、大変に難しいことであり、織物業をあきらめ、京都の料理屋で板前の修業に入る。

    昭和10年頃の間人港
    創業期(昭和4年~昭和30年頃)
    昭和2年の丹後大震災を契機にうどん屋を閉店し、先々代を板前として、料理旅館を創業する。創業時の名称は初代の女将の名前から吉野家とした。その後結婚して、先代が生まれる。先代が小学校3年生の時(昭和16年)板前であった2代目が死去。以後、板場を雇い、初代と2代目女将が吉野家を盛り立てていく。そのころの営業形態は旅館業よりも料亭に近く、芸者さんが30人近くいて、地元の旦那衆、また、西陣からの客人をもてなす場所として発展していったという。
  • 発展期(昭和30年)

    先代は実家である吉野家を継ぐために、高校を卒業後、京都市中京区の魚長で料理修行をつみ、昭和29年に帰郷。 吉野家の3代目として、また料理長として、初代、2代目女将と共に吉野家の発展に力を注ぐ。 昭和31年に結婚し、3代目女将の時代となると旅館として宿泊に力をいれ、本来の旅館業の充実をはかる。

    おりしも日本は高度経済成長期を迎え、それまで、贅沢とされ、一部の人間のものであった「旅行」が大衆のたのしみとなり、特に夏の海水浴は家族の一大イベントとして定着していく。 間人の町にも数十件の旅館、民宿が誕生し、後ヶ浜海水浴場は多くの家族連れで賑わいを見せた。
  • 発展期(昭和40年代)

    吉野家は料理の美味しい宿として評判を高めていった。 その評判は京都市内まで届き、大映、日活、東映、松竹などの映画のロケ隊の定宿となっていく。 だが、それだけにとどまらず、3代目は間人の魅力は夏だけではないことを知ってもらおうと間人港に水揚げされる新鮮な蟹の調理法の研究を始める。昭和32年から2年の月日を費やし、後に黄金のスープと絶賛される吉野家のだしを完成させる。 しかしこれに満足せず、さらに料理の研究に没頭し、自身「完成した時には体が震えた」と語る【蟹の洗い】ではない【本物の蟹刺し】を作り出し、昭和34年ついに丹後で初めて【かにフルコース】を完成させた。
  • 円熟期(昭和50年~昭和60年代)

    昭和40年代より徐々に増えていった映画のロケ隊であるが、昭和53年の新築工事により一気にその数を増やし、日ごろ美食を楽しんでいる芸能人の中にも多くのファンを獲得していく。特に勝 新太郎氏には吉野家を愛していただき、京都の撮影の合間に足繁く訪れていただいた。また、森繁久彌氏には館の衝立に「海の如く大らかに」ではじまる一文を寄贈していただき、お帰りになった後、礼状として巻物につづった一巻をよせていただいている。そういった声はマスコミにも伝わり、度々テレビ番組にも登場するようになっていく。その傍ら、観光協会長として、地域の料理人たちを集め、蟹料理の講習会を開催するなど、間人蟹のブランド化に奔走する。漁師、漁協、水仲組合、観光協会、旅館組合などの協力もあり、地域一丸の活動としての結果、日本初のブランド蟹、間人蟹が誕生したのもこの頃である。 それらは時代を超えて、「吉野家」から「よ志のや」へと引き継がれている。