初代は織物業、生糸業を経て、うどん屋を営んでいた。当時、初代がこういった商売をする傍ら、小さな伝馬船で海に出て、漁業も行っていた。 先々代はこういった実家の商売の関係から、京都の西陣で織物業の仕事についていたが、織物業での暖簾(のれん)分けは当時、大変に難しいことであり、織物業をあきらめ、京都の料理屋で板前の修業に入る。
昭和10年頃の間人港
創業期(昭和4年~昭和30年頃)
昭和2年の丹後大震災を契機にうどん屋を閉店し、先々代を板前として、料理旅館を創業する。創業時の名称は初代の女将の名前から吉野家とした。その後結婚して、先代が生まれる。先代が小学校3年生の時(昭和16年)板前であった2代目が死去。以後、板場を雇い、初代と2代目女将が吉野家を盛り立てていく。そのころの営業形態は旅館業よりも料亭に近く、芸者さんが30人近くいて、地元の旦那衆、また、西陣からの客人をもてなす場所として発展していったという。